

「遺伝子―血は争われぬもの。200年前の交易船がヘリコプターに、瀬戸内、玄界灘がインド洋、ペルシャ湾、世界市場へと、形・規模は変わりましたが、私は、八浜の鳥人表具師幸吉、高田屋嘉兵衛北辺の護り、その水手日比の百姓金蔵オロシア漂流と、色気の多い多彩な人生を経験しました」とは、故郷の、昔廻船問屋・義若総本家に、最近書き送った「義若友造次男義若基之履歴」の中の一文です。
昭和27年(1952年)、阪大篠田軍治先生から"そろそろ航空機を再開するようだ"とのご指導を得て入社した川崎機械工業(後に川崎航空機を経て川崎重工に合併)、最初の仕事が毎日循環型酸素呼吸器を背中に池の周りを走る人間実験台、いやになって大学を訪ねた。同年4月末のことであった。
尊敬する千田香苗先生から"学者はピュアーでなければならない。君は色気が有り過ぎる。大学は金を払って来る所、会社は金を貰いに行く所"と諭されて、それで一生川重"金無"。
幕を閉じる今となっては、川重ヘリコプターで分相応、普通人の経験しない事業に多々係わる事が出来たと反省している。
昭和50年(1975年)9月、伊藤忠商事(株)室伏稔開発部部長補(伊藤忠商事前社長、現会長)が、ロンドン在、世界の政商T社の副社長、常務を川重岐阜工場に案内し、その前年メッカ巡礼テント村で発生した火災大災害、消防ヘリコプターのニーズを報じた。
この来訪が、燃えるサウジ砂漠にKV107UA防災ヘリコプターを展開してオペレーションするという壮大な国際ヘリコプター・プロジェクトの導火線となったようだ。
KV107サウジ−1、2号機![]()
KV107UAサウジ・プロジェクトは、川崎重工業(株)が、世界の強豪、シコルスキー、ベル、エアロスパシャル、ウエストランド、MBB社と競合して勝利受注した、サウジアラビア内務省の防災ヘリコプター団の創設に係わるプロジェクトで、第1次契約(昭和52年8月成約)と第2次契約(昭和57年8月成約)の2契約からなり、総契約金額は500億円程度であったと記憶している。
契約内容は、消防、救助、病院、VIP等4機種16機のKV107UAヘリコプター、部品材料・補用品および整備・修理用機材を輸出納入し、サウジ国内に5基地(リヤド、ジェッダ、ダーラン、アブハの4基地と1前進基地)―各基地とも、ヘリポート、格納庫、運航司令室、要員執務室、修理工場、部品倉庫、消火訓練用水プール、要員居住およびレクリエーション施設等からなる―を建設し、全基地にヘリコプターを展開して10年間運航整備する。さらにパイロット、整備士等約300名のサウジ人トレイニーを米国で基礎教育を実施した後サウジアラビア国内にて訓練育成し、10年後の契約終了時に全てのオペレーションを彼等サウジ人運航要員にトランスファーするというフル・ターン・キイー・プロジェクト、わが国の航空産業界には、未経験、異例の大プロジェクトであった。
川重、伊藤忠合同チームは、異なる文化、厳しい環境に耐え、筆舌に尽くし難い艱難辛苦を乗り越えて、昭和63年(1988年)8月、10年余にわたった本契約を見事成功裏にこれを完遂した。
長吊りバケットから消火水をまくKV107サウジ機小生、当初ヘリコプター設計部長、比較的短期間にシステム開発を完了し、その直後に東京営業へ転出、燃える砂漠の国際商戦に参入することとなった。サウジアラビアでは約1年間運航指導と営業活動に汗を流した。昭和56年(1981年)の初日の出をリヤド基地で迎え、ノンアルコールの缶ビールで乾杯、1月2日には予算関連でサウジアラビア内務省に呼び出されていた。
当該ヘリコプターは、第1次契約から4半世紀経った今もなお健在、今年(2003年)も2月8日から始まったメッカ大巡礼、170ヶ国数百万モスレムの安全確保に大活躍した。
サウジの筆者(追記:本文は阪大精密卒業50周年記念誌(割当1頁)に纏めた老爺自分史。本KV107ヘリコプター・プロジェクトは日本ヘリコプターが21世紀に生き残る道を示唆していると思う。)
(『日本ヘリコプタ技術協会2003年度会報』掲載)
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